茨城県が日本初の意外な物あれこれ~ワイン・エレベーター・ホームページ・うな丼

茨城県が日本で最初の意外なものあれこれ 茨城自慢のコラム

いまやあたり前になっているものであっても、誰かが日本のどこかで最初に行ったことによって現在に至っているわけです。

よく「日本初の~」という言葉を耳にしますが、実は茨城県にも、この「日本初」がたくさんあるのです。

「先見の明」という言葉がありますように、やはり誰がなんといおうと「日本初」というのは「エライ!」と個人的には思っています。

このページでは、多くの人が知らない茨城県の「日本初」を紹介しています。

「えっ?これって茨城県が最初だったの?」と驚くようなものがたくさんあると思います。

茨城県民の皆さんにはこうした事実を知ってもらって、茨城県民であることを大いに誇りに思っていただきたいと思います。

日本初のホームページは茨城県で制作されました

日本初のホームページ
いまや私たちの生活は、ホームページがないと成り立たなくなっています。

若い人の中には、テレビや新聞は見ないけれども、Yahooニュースは見るという人が多くなっています。

そんな、日常生活の一部に溶け込んでしまっており、存在するのがあたり前になっているホームページですが、日本で最初に誕生した場所が茨城県なのです。

茨城県は農業のイメージしかないと思っているそこのあなた、それは偏見というものです。

茨城県はITの先駆者なのです。

日本最初のホームページは、茨城県つくば市の文部省高エネルギー加速器研究機構計算科学センターの森田洋平博士により、1992年9月30日に誕生しました。

実は日本初のホームページは現在も残されており、以下のリンクからご覧になることができます。

日本で最初のホームページ

現在私たちが見ている多くのホームページとくらべると、文字とリンクのみのシンプルな作りで物足りなく感じますが、当時としてはこのホームページでも大変な偉業だったのです。

ちなみに、このホームページのために使われた日本初のwwwサーバーは、現在もつくば市の高エネルギー加速器研究機構に展示させていますが、見た目は普通のパソコンです。

日本初のwwwサーバーの外観は以下のリンクから確認できます。

日本初のwwwサーバー

日本初の本格的ワイン発祥の地~茨城県牛久市

牛久シャトー
茨城県とワインのイメージがつながらない人も多いと思いますが、実は日本の本格的ワイン発祥の地とされているのは茨城県の牛久市なのです。

日本で最初の本格的ワインは、実業家であった神谷傳兵衛によって明治38年(1903年)に開設された、シャトーカミヤ(現在の牛久シャトー)で醸造されました。

シャトーカミヤでは、ブドウの栽培からワインの醸造、瓶詰までをすべて行っていました。

当時のフランスにあった醸造所をモデルに、ボルドー地方の技術を取り入れて本格的なワイン醸造に取り組んでいます。

当時のシャトーカミヤで使われていたワイン造りのためのさまざまな機械が、牛久シャトー内にある神谷傳兵衛記念館(旧発酵室)に残されています。

牛久シャトーにある神谷傳兵衛記念館

現在牛久シャトー内に残る旧醸造施設3棟は、国の重要文化財に指定されています。

茨城県牛久市というと大仏様のイメージが強いと思いますが、実は日本の本格的なワインが誕生した由緒ある場所なのです。

牛久シャトー公式サイト

牛久シャトーと神谷傳兵衛記念館~日本の本格的ワイン発祥の地~茨城県牛久市
明治時代より本格的なワインを製造し続けてきた茨城県にある牛久シャトーですが、当時のワイン造りに使われた発酵樽やさまざまな機械などが、神谷傳兵衛記念館に残されています。神谷傳兵衛のワイン造りに対する思いや足跡を知ることのできる、貴重な資料館で...

日本初のサッカー専用スタジアム~茨城県立カシマサッカースタジアム

茨城県立カシマサッカースタジアム
茨城県が誇るサッカーチームといえば、Jリーグの中でもダントツの優勝回数を誇る鹿島アントラーズです。

この鹿島アントラーズが本拠地とするのが、茨城県立カシマサッカースタジアムです。

このカシマサッカースタジアムですが、実は日本で初めての本格的なサッカー専用のスタジアムだったのです。

当時は、プロが試合を行うための本格的な観客席を備えたサッカー専用スタジアムというものは、日本のどこにもありませんした。

サッカーの試合は、陸上競技のためのトラックが併設されたグラウンドで行うのが普通だったからです。

しかし、実際にトラックが併設されたグラウンドでサッカーの試合を観戦してみると分かりますが、観客席とピッチサイドが遠く選手たちの迫力あるプレーを身近に感じることができません。

試合における迫力や臨場感は、ピッチサイドと観客席が近いサッカー専用スタジアムの方が圧倒的に高くなるのです。

そんな、日本初の本格的なサッカー専用スタジアムが茨城県鹿嶋市に作られることになった背景には、当時日本リーグ2部であった住友金属蹴球部のJリーグへの参加がありました。

Jリーグの初代チェアマンであった川渕三郎さんは、住友金属がJリーグに参加するのは99.9999%不可能と告げていました。

そのとき、住友金属関係者が「0.0001を実現するためには何が必要ですか?」と聞くと、川渕三郎さんは「15000人が収容できる本格的な屋根付きにサッカー専用スタジアムを作ること」と回答したのです。

川渕三郎さんにしてみれば、こうした無理難題を押し付ければ、住友金属もあきらめてくれだろうという思いだったようです。

しかし、その無理難題が実現してしまったのです。

そういったアンビリーバブルな経緯で建設されたのが、茨城県立カシマサッカースタジアムだったわけです。

茨城県立カシマサッカースタジアム

日本で最初にLCCに対応したのが茨城空港です

茨城空港
いまやLCCを使って格安で飛行機に乗るのがあたり前になっていますが、実は日本で初めてこのLCCに対応したのが茨城空港だったのです。

茨城空港ができたのは2010年3月ですが、それまで日本国内にはLCCに対応できる空港はありませんした。

それまでの日本の空港は、着陸料・停留料といった使用料が高く、LCCに対応するのが困難だったのです。

しかし、茨城空港は当初からLCCをターゲットにするという構想で建設されましたので、さまざまなローコストを実現して格安航空機を受け入れることができたのです。

茨城空港では、ローコストを実現するためにさまざまな工夫をしています。

たとえば、駐機の仕方を工夫することによって、飛行機を方向転換させるための専用車両を茨城空港では必要としません。

また、空港から飛行機の搭乗口を直接つなぐボーディングブリッジを採用せずに、あえて屋外から飛行機に乗り降りするパッセンジャーステップ(タラップ)方式が採用されています。

こうしたローコストの実現によって、茨城空港は2011年に日本の空港としては初めての「ローコスト・エアポート・オブ・ザ・イヤー」を受賞しています。

茨城空港公式サイト

日本初の本格的な洋上風力発電所~ウィンド・パワー

茨城県神栖市にある洋上風力発電所の風車
茨城県神栖市の鹿島港南浜地区の海の上に、7基の風力発電の風車が設置させています。

これらの風車は、日本初の本格的な洋上発電所として、ウィンド・パワーという会社によって2010年6月に稼働が開始しされました。

風車の高さは海面から60mで、羽の長さは1本当たり40mもあります。

こうした風車が岸壁から50mほどの沖合に7基ならんでいる様はまさに壮観で、その景色の美しさからテレビや映画のロケ現場として利用されたり、インスタグラマーたちの撮影スポットになったりしています。

風力発電の先進諸国が集まるヨーロッパでは、洋上に風車を設置するのは最もポピュラーなやり方ですが、浅瀬の少ない日本では工事が難しく設置コストがかかることなどから、これまで敬遠されてきました。

しかし、この神栖市の浜であればそれほどコストがかからずに建設できるとの調査結果から、日本初の洋上風力発電が建設されることになったわけです。

この洋上風力発電設備が設置されている場所の護岸壁には、1000人画廊と呼ばれる市民画家たちによって描かれたたくさんの壁画があります。

ウィンド・パワー公式サイト

日本で最初のエレベーターは水戸の偕楽園の中にあった?

水戸の好文亭にある日本初のエレベーター
高層ビルが立ち並ぶいまの日本においては、エレベーターはなくてはらない存在です。

しかし、それほど高い建物がなかった江戸時代に、日本初のエレベーターが作られていたことをご存知でしょうか?

その日本初のエレベーターは、茨城県水戸市の偕楽園内にある好文亭に設置されていたのです。

好文亭は、水戸の9代目藩主である徳川斉昭が、自ら設計をして建設したとされる2層3階の木造建築物です。

好文亭は決して高い建物ではないのですが、階段がとても急な造りになっていました。

そのため、3階にある寿楽楼に食事を運搬するための設備として、エレベーターが考案されたわけです。

もちろん江戸時代ですから、現代のエレベーターのようにスイッチを押せば簡単に動作するわけではありません。

人間がロープを引っ張って、人力でコンテナの上げ下げをしていたのです。

自らが設計した建物に日本初のエレベーターを設置した9代目水戸のお殿様は、先見の明があるお方だったということですね。

ちなみに、日本初の電動式エレベーターは、明治23年(1890年)に浅草の凌雲閣という12階建ての建物に設置されました。

参考:エレベーターの歴史

好文亭から眺める景色が美しすぎる~水戸藩主徳川斉昭の設計による偕楽園内の施設
好文亭は水戸の偕楽園内にある施設で、偕楽園を開設した9代目水戸藩主の徳川斉昭がみずから設計をしています。好文亭の構造は木造二層三階建てとなっており、三階の楽寿楼からの眺めはとても素晴らしく、偕楽園や千波湖の美しい光景を目の当たりにすることが...

うな丼発祥の地と言われる茨城県龍ヶ崎市

うな丼
茨城県龍ヶ崎市は「うな丼発祥の地」と呼ばれ、牛久沼沿いの「うなぎ街道」と呼ばれる通りには老舗のうなぎ屋さんが立ち並んでいます。

龍ヶ崎が「うな丼の発祥地」と呼ばれるようになった背景には、大久保今助という男の逸話があります。

大久保今助は、江戸日本橋境町に住む芝居の金方(出資者)で、鰻が大好物でした。

たまたま生まれ故郷の茨城県常陸太田市に帰る途中に、牛久沼の茶屋に寄って鰻の蒲焼とどんぶり飯を注文しました。

ところが、待ちに待った鰻のかば焼きが出来がってくるのと同時に、非情にも「船が出るぞー」の声が聞こえてきたのです。

大久保今助は、鰻のかば焼きの乗った皿とご飯の入ったどんぶりを受け取ると、鰻の入った皿をどんぶりの上にポンとかぶせて大慌てで船に乗り込んみました。

舟が対岸に到着したあと、やれやれと思って土手に腰を下ろしてその鰻を食べ始めたところ、ご飯の熱で蒸された鰻が柔らくなってとてもおいしくなっていることに気がついたのです。

どんぶりのご飯も、蒲焼きのたれが程よくしみ込んで、これまでに食べたことがないほどおいしく感じられました。

この逸話から、うな丼がどのように広まって行ったのかについては諸説あります。

大久保今助が、日本橋に帰る途中にどんぶりと皿を返すために寄った茶屋で、偶然できた「うな丼」がとてもおいしかったという話をしたことから、その茶屋がメニューの1つとしてうな丼を出すようになり水戸街道の名物になったという説があります。

別の説としては、大久保今助が自分の芝居小屋でうな丼を売り出すようになってから、その美味しさが江戸中に広まって行ったというものがあります。

もし龍ヶ崎市に行く機会があったら、このうな丼発祥の地で江戸時代から伝わる鰻の味をぜひ堪能してみるといいでしょう。

参考:うな丼発祥の地・龍ケ崎市の牛久沼

茨城県出身の木村安兵衛によって考案された「あんパン」

木村屋の本店
「アンパンマン」というと子供たちの大ヒーローですが、この「あんパン」を日本で最初に作ったのが茨城県出身で元士族であった木村安兵衛です。

木村安兵衛は、スーパーやコンビニでよく見かける「キムラヤのパン」の創業者です。

あんパンが誕生したのは明治7年(1874年)ですが、西洋から入って来たパンの中に、饅頭のようにあんこを入れてしまうという発想が当時の日本人に受け入れられて、大ヒットにつながったわけです。

みずからが発明したあんパンが、やがてアニメの中のヒーローとなって大活躍するなんて、さすがの木村安兵衛も想像できなかったに違いありません。

あんパンが考案された翌明治8年の4月4日には、明治天皇が隅田川の花火で向島の水戸藩下屋敷を訪問したときに、山岡鉄舟の仲介によって茶菓子としてあんパンが献上されました。

それ以降、あんパンが明治天皇御用達となったことにより、4月4日は「あんぱんの日」として記念日に認定されています。

参考:木村屋のあゆみ

文:護持八平

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