茨城県には、鹿島アントラーズというJリーグのなかでも最も実績を残しているチームがあります。
鹿島アントラーズがここまでの大活躍ができた背景には、サッカーの神様であるジーコの力があったことを疑う人はいないでしょう。
アントラーズの本拠地である鹿島サッカースタジアムのすぐ隣にあるカシマスポーツセンターには、功績者であるジーコの銅像が建てられています。
そして、そのジーコ像の周りにはJリーグ発足直後に活躍したアントラーズの選手の足形がの残されています。
アントラーズのファンであれば、1度は足を運んでみる価値があります。
背番号10のユニフォームを着たジーコの雄姿と、Jリーグ草創期のアントラーズの選手たちの足形に、思わず懐かしさがこみあげてくることでしょう。
- 鹿島アントラーズのユニフォームを着たジーコの銅像
- 神様ジーコの左右の足形
- 川崎の監督として大活躍の鬼木達
- アントラーズの三冠に貢献した鈴木隆行
- 鹿島アントラーズのエースストライカーだった柳沢敦
- 左サイドバックのスペシャリスト相馬直樹
- 草創期のアントラーズを献身的に支えたサントス
- スッポンのようにしつこい守備が特徴の本田泰人
- 住友金属時代からの生え抜きセンターバック大野俊三
- いぶし銀のようなプレースタイルの奥野僚右
- 鹿島アントラーズの代表的なレジェンド秋田豊
- 2016年度最優秀監督賞の石井正忠
- アルシンド~抜群のスピードでゴールを量産した国民的スター
- 空中で止まれる男~長谷川祥之
- レオナルド~華麗なテクニックを披露してくれた貴公子レオ様
- ジョルジーニョ~鹿島に来た現役バリバリのブラジルセレソン
- 大きな体から放つ強烈なシュートが魅力的だった黒崎比差支
- マジーニョ~助っ人ブラジル人で一番得点を残したストライカー
- 古川昌明~女性に人気のあったイケメンキーパー
- ジーコ像とアントラーズ選手の足形までのアクセス
鹿島アントラーズのユニフォームを着たジーコの銅像
鹿島サッカースタジアムのすぐ隣になるカシマスポーツセンターの敷地内に、鹿島アントラーズの背番号10を背負ったジーコの銅像があります。
その姿から判断すると、ジーコがフェイントを仕掛けているところのようです。
ジーコと言えばサッカーの神様であり鹿島アントラーズの立役者ですから、アントラーズのファンにとっては特別な存在です。
鹿島スタジアムに訪問した際に、このジーコ像のとなりで写真撮影をしていくファンも少なくありません。
このジーコ像の周りには、鹿島アントラーズの初期の頃に活躍した選手たちの足形が残されています。
この足形に注目する人が少ないのは残念ですが、アントラーズファンにとっては貴重な資料ともいえるものです。
これらの足形を見ていると、鹿島アントラーズには本当にすごい選手ばかりが在籍していたのだということを再認識させられます。
以下に、足形を見ながら当時のアントラーズの選手について振り返ってみたいと思います。
神様ジーコの左右の足形
ジーコ以外の選手は、右足か左足のどちらかの足形が残されていますが、ジーコの足形だけは左右両方残されています。
アントラーズでの活躍は言うまでもありませんが、ブラジル代表の試合でもこの両足から72試合中52ゴールをたたき出しています。
もちろん、Jリーグ開幕1年目の名古屋戦でのジーコのハットトリックも強烈に印象に残っているシーンです。
川崎の監督として大活躍の鬼木達
川崎フロンターレの指導者としてすばらしい実績を残している鬼木監督ですが、もともとは鹿島アントラーズの選手で、ミッドフィルダーとして活躍していました。
鹿島に在籍していたのは1993年~1999年ですが、1998年の1年間は川崎にレンタル移籍となっていました。
このときに川崎との接点ができたわけですね。
鬼木達選手は右利きでしたが、残されている足形は左足です。
アントラーズの三冠に貢献した鈴木隆行
元日本代表の鈴木隆行は、1995年~2005年まで鹿島アントラーズに在籍していましたが、その間に国内外のさまざまチームにレンタル移籍をしています。
2000年のシーズン途中で川崎から鹿島に戻ったときには大活躍をし、チームの三冠に大きく貢献をしています。
日本代表としても活躍し、国際Aマッチで11ゴールをあげています。
2002年の日韓ワールドカップの代表メンバーにも選ばれ、ベルギー戦でゴールも決めています。
2011年からは、茨城県のもう一つのJリーグチームである水戸ホーリーホックにも在籍していました。
鹿島アントラーズのエースストライカーだった柳沢敦
元日本代表のエースストライカーとして活躍した、柳沢敦の足形です。
柳沢敦は、1996年~2003年まで鹿島アントラーズで活躍をして、その後3年間はイタリアでプレーしています。
2006年と2007年は再び鹿島アントラーズでプレーをしていましたが、2008年からは京都パープルサンガやベガルタ仙台などに在籍をしています。
日本代表の国際Aマッチでも通算17ゴールの活躍をしています。
2002年のFIFAワールドカップのメンバーにも、同じ鹿島アントラーズの秋田豊、中田浩二、鈴木隆行、小笠原満男、曽ヶ端準らとともに選ばれております。
左サイドバックのスペシャリスト相馬直樹
古くからの鹿島アントラーズファンであれば、左サイドバックといえば相馬直樹を思い出すに違いありません。
ポジションは左サイドバックですが、利き足は右のため、中央に切り込んで行きながら得意の右足を生かすプレースタイルがとても魅力的でした。
鹿島アントラーズには1994年~2003年まで在籍(2002年はヴェルディにレンタル移籍)し、その後川崎フロンターレで2年間プレーしました。
日本代表としても活躍し、国際Aマッチに58試合出場しています。
引退後は、FC町田ゼルビアや川崎フロンターレなどで監督として活躍しましたが、2020年には古巣の鹿島アントラーズに戻って、トップチームのコーチに就任しています。
草創期のアントラーズを献身的に支えたサントス
Jリーグ草創期における鹿島アントラーズの外国人助っ人というと、ジーコとアルシンドのイメージが強烈に残っていますが、サントスの存在も忘れてはいけません。
ジーコやアルシンドほどの派手さはありませんが、運動量豊富な本当にサッカーのうまい選手で、初代Jリーグベストイレブンにも選ばれています。
ジーコが不在のときにキャプテンを任されていたことからも、チーム内で信頼されていたことがうかがえます。
鹿島アントラーズへは1992年に加入していますが、1995年のシーズン途中で清水エスパルスに移籍をしています。
スッポンのようにしつこい守備が特徴の本田泰人
古くからの鹿島アントラーズファンが、アントラーズのキャプテンとしてすぐに思い浮かべるのがこの本田泰人と小笠原満男だと思います。
本田泰人は小柄ながら、スッポンのようなしつこい守備を特徴とするボランチで、ライバルチームであるヴェルディの司令塔ビスマルクへのマークは本当に厳しく、ビスマルクの天敵といわれました。
ビスマルクが鹿島アントラーズに移籍してきたときに、「本田とチームメイトになれてよかった」と語ったのは、おそらく本音でしょう。
本田泰人は日本代表としても活躍し、国際Aマッチに29試合出場しています。
住友金属時代からの生え抜きセンターバック大野俊三
鹿島アントラーズが、1993年Jリーグ開幕の年にファーストステージ優勝を成し遂げたときの立役者の1人が大野俊三です。
アントラーズの前身は日本リーグ2部の住友金属工業だったため、Jリーグに参加するにあたって当時日本リーグ1部であった本田技研から多くの選手が移籍しました。
黒崎比差支、長谷川祥之、本田泰人、内藤就行といった多くの主力選手が本田技研の選手でした。
そんななか、大野俊三は住友金属時代からの生え抜きの選手として、地元のファンに愛されていました。
鹿島アントラーズの不動のセンターバックとして活躍した大野俊三ですが、1996年に京都パープルサンガに移籍をしています。
日本代表にも選ばれており、ドーハの悲劇のときも代表メンバーでした。
現在は、鹿嶋市内のスポーツ施設「鹿島ハイツプラザ」の支配人をしています。
いぶし銀のようなプレースタイルの奥野僚右
2020年からザスパクサツ群馬の監督をしている奥野僚右は、1993年~1999年にかけて鹿島アントラーズのセンターバックとして活躍した選手です。
奥野僚右はカバーリングが得意なセンターバックで、大野俊三や秋田豊とのコンビで抜群の安定感を披露しました。
2000年に川崎フロンターレに移籍し、2001年はサンフレッチェ広島で1年プレーしたあと、2002年から群馬県リーグ1部のザスパ草津に選手兼監督として加入しました。
チームを群馬県リーグ1部からJFLに昇格させ、その功績によって奥野僚右がつけていた背番号31は永久欠番となっています。
鹿島アントラーズの代表的なレジェンド秋田豊
鹿島アントラーズの不動のセンターバックとして1993年~2003年まで在籍し、9つのタイトル獲得に貢献したのが秋田豊です。
ヘディングや対人の強さはピカイチで、相手フォワードからは「秋田の半径1m以内に近づくと壊される」と恐れられました。
試合中に肩を脱臼したにもかかわらず、自分で戻してそのまま試合を続けたという逸話から、そのメンタルの強さがうかがえます。
日本代表として国際Aマッチに44試合出場し、センターバックながら4得点を決めています。
2020年からは、J3の「いわてグルージャ盛岡」の監督として活躍しています。
2016年度最優秀監督賞の石井正忠
石井正忠は、Jリーグが開幕した年から1997年までミッドフィルダー及びディフェンダーとして鹿島アントラーズの主力だった選手です。
石井正忠は、選手としての活躍もさることながら、アントラーズの監督として有名になりました。
2016年にはリーグ戦と天皇杯の2冠を獲得し、クラブワールドカップでは決勝戦まで進出して、レアルマドリードにあと一歩のところまで迫りました。
こうした実績により、石井正忠は2016年度の最優秀監督賞に選ばれています。
2019年より、タイ・リーグのサムットプラーカーン・シティFCの監督に就任しています。
アルシンド~抜群のスピードでゴールを量産した国民的スター
Jリーグの草創期における大スター的な存在が、このアルシンドです。
抜群のスピードと決定力のあるストライカーで、1993年にはリーグ戦、リーグ杯、天皇杯合わせて38試合に出場し、27得点をたたき出しています。
翌1994年も鹿島アントラーズに在籍をし、期間通算44試合に出場で28ゴールを決めています。
両方の年を合わせると、トータルで82試合の出場に対して55ゴールを決めており、3試合に2得点の割合でゴールをしていたことになります。
出場試合数に対して、これほどの確率でゴールを量産している選手は、鹿島アントラーズの歴史上アルシンド以外に存在しません。
アントラーズに在籍をしたのはわずかに2年でしたが、ファンの記憶に最も残っている選手の一人です。
また、独特の髪型とユニークなカツラのCMによって、アントラーズのファンだけではなく、日本中の人気者となりました。
空中で止まれる男~長谷川祥之
長谷川祥之は、鹿島アントラーズで歴代1位のゴール数を誇るストライカーで、リーク戦、リーグ杯、天皇杯合わせて120得点を残しています。
特にヘディングが強く、滞在時間の長いジャンプから「空中で止まれる男」の異名がありました。
Jリーグ立上げのタイミングで本田技研から移籍してきた長谷川祥之は、2003年に現役を引退するまでずっと鹿島アントラーズ一筋で活躍をした選手です。
日本代表にも招集されており、国際Aマッチで6試合に出場しています。
2012年からは、鹿島アントラーズのスカウトとして活動しています。
レオナルド~華麗なテクニックを披露してくれた貴公子レオ様
甘いマスクと華麗なテクニックにより「貴公子レオ様」の愛称で親しまれたのが、レオナルドです。
レオナルドは1994年に鹿島アントラーズに加入していますが、その年に行われたワールドカップではブラジル代表の左サイドバックとして活躍していました。
現在では考えられないことですが、バリバリの現役セレソンだった選手が鹿島アントラーズに加入してしまったのです。
レオナルド自身も言っていましたが、やはりジーコに誘われたことが大きかったようです。
レオナルドのプレーで一番印象に残っているのが、1995年の横浜F戦でリフティングしながら華麗に決めたゴールです。
このときのレオナルドのゴールは、Jリーグ20周年のベストゴール1位に選ばれています。
ジョルジーニョ~鹿島に来た現役バリバリのブラジルセレソン
ジョルジーニョも1994年のワールドカップで活躍した現役のブラジルセレソンとして、1995年に鹿島アントラーズに加入しました。
レオナルドとともに、ブラジルの現役代表が2人も同時に鹿島アントラーズに在籍することになったわけですから、これは本当にすごいことでした。
1996年には、Jリーグ最優秀選手賞とベストイレブンに選ばれています。
ワールドカップ・アメリカ大会では右のサイドバックとして全試合に出場したジョルジーニョでしたが、鹿島アントラーズでは主にボランチとしてプレーしました。
ブラジル現役セレソン2人のプレーを間近で見ることができたわけですから、当時のアントラーズファンは本当に幸せだったと思います。
ジョルジーニョは1998年まで鹿島アントラーズでプレーしてその後ブラジルに戻りましたが、2012年には監督として鹿島アントラーズに帰ってきました。
リーグ戦ではあまりいい成績を残せませんでしたが、ナビスコ杯では見事に優勝という結果を残しています。
大きな体から放つ強烈なシュートが魅力的だった黒崎比差支
黒崎比差支はJリーグ発足と同時に本田技研からアントラーズに移籍した長身のフォワードで、ヘディングや強烈な右足のシュートを得意としていました。
同じくジャンプ力があってヘディングを得意としていた長谷川祥之とともに、アントラーズのツインタワーなどと呼ばれていました。
黒崎比差支のキック力は規格外で、フリーキックのキッカーを務めるときには、壁となった選手たちを恐怖のどん底に陥れました。
ちなみに、黒崎比差支という名前はアントラーズでプロとして活躍するときに登録されたもので、アントラーズ退団後の2000年に本名の黒崎久志に戻しています。
鹿島アントラーズには1997年まで在籍し、その後、京都パープルサンガやヴィッセル神戸、アルビレックス新潟、大宮アルディージャなどで活躍しています。
日本代表として国際Aマッチに24試合出場し、4得点という結果を残しています。
マジーニョ~助っ人ブラジル人で一番得点を残したストライカー
マジーニョは元ブラジルセレソンで、鹿島アントラーズの歴代助っ人フォワードの中で、一番得点を残している選手です。
それほど派手さはありませんでしたが、ドリブルのテクニックなどは、さすが元セレソンと思わせるものがありました。
Jリーグ通算155試合に出場して77得点を決めていることからも、決定力のあるストライカーだったことが分かります。
ドイツのバイエルン時代には、ジョルジーニョと一緒にプレーをしていました。
鹿島アントラーズでは1995年~1999年まで活躍し、その後に川崎フロンターレに移籍しています。
古川昌明~女性に人気のあったイケメンキーパー
歴代の鹿島アントラーズのゴールキーパーというと、曽ヶ端準を思い浮かべる人が多いと思いますが、Jリーグ草創期における鹿島のキーパーといえば、甘いマスクで女性に人気のあった古川昌明です。
古川昌明は、本田技研工業時代の同期である黒崎比差支の紹介によってアントラーズのテストを受け、入団が決まったという異色の存在です。
Jリーグが開幕した1993年には、38試合すべてにフルタイム出場し、鹿島アントラーズのファーストステージ優勝に大きな貢献をしました。
身長180cmと、ゴールキーパーとしては決して大柄ではありませんでしたが、セービングには定評があり日本代表にも選ばれています。
2012年から鹿島アントラーズのゴールキーパーコーチを務めていましたが、2019年に「いわきFC」のゴールキーパーコーチに就任しています。
ジーコ像とアントラーズ選手の足形までのアクセス
ジーコの銅像とアントラーズ選手の足形は、鹿島サッカースタジアムのすぐ南側にある、カシマスポーツセンターの敷地内にあります。
鹿島サッカースタジアムの第3ゲート~第5ゲート周辺から南側に目を向けてみると、ジーコの銅像を見つけることができるはずです。
東京方面からクルマでカシマスポーツセンターに向かうには、東関東自動車の潮来インターを出て、国道51号線バイパスを20分ほど走ると到着します。
電車や高速バスを利用するときは、鹿島神宮駅で降りてそこからタクシーで5分ほどで到着します。
鹿島サッカースタジアム駅で下車をすれば、そこから徒歩2分ほどで到着できますが、残念ながら鹿島サッカースタジアム駅はアントラーズの試合があるときのみの臨時停車駅となっています。
文:護持八平